作家

アルフォンス・ミュシャ 優美な女性画だけじゃない!多彩なアーティストの実像

更新日:

 

アルフォンス・ミュシャ(1860~1939年)は、優美な女性のポスターで有名な画家ですね。

 

ミュシャと言えば美女。

そんなイメージが強いでしょう。

 

ですが、美女のポスターはミュシャのひとつの側面でしかありません

本当のミュシャは、もっと多様な作品を創った人物でした。

 

この記事では、ミュシャの多面性をテーマに据えています。

美女ポスター以外のミュシャをお伝えできれば幸いです。

 

スポンサーリンク

代表作

 

まずはミュシャの代表作を6点ご紹介します。

 

1892年以降
フリードリヒ・バルバロッサの死

 

1897年
モナコ-モンテカルロ

 

1900年頃
ブローチ

 

1912年
大ボヘミアにおけるスラヴ的典礼の導入
(スラヴ叙事詩)

 

切手

 

 

代表作を見るだけでも、様々な作品を制作したことが分かりますね。

これから、その多様性を紐解いてみましょう。

 

 

スポンサーリンク

初期に制作した挿絵

 

1860年、現在のチェコ共和国で生まれたミュシャは、1887年、27歳でパリに出ます。

 

パリで活動を始めたミュシャですが、金銭的に恵まれてはいませんでした。

生活のため、はじめは挿絵作家として活動することになります。

 

ミュンヘンでしっかりと描画を学んだ経験から、高い画力ですぐれた作品を制作しました。

 

1892年以降
フリードリヒ・バルバロッサの死

 

 

スポンサーリンク

パリで描いた優美な女性のポスター

 

挿絵作家、つまり脇役として活動していたミュシャに、転機が訪れます。

1894年、34歳の時でした。

広告のポスターを制作し、パリ中の注目を集めたのです。

 

その作品がこちら。

 

1894年
ジスモンダ

 

まだまだ固さはあるものの、華やかな画風は紛れもなくミュシャのものですね。

 

このポスターは、パリの大女優サラ・ベルナールが主演する演劇の広告でした。

パリの街中に飾られたポスターは、無名の画家ミュシャの名を一気に広めました

 

主演のサラ・ベルナールはミュシャのポスターをたいそう気に入って、6年契約で出演作のポスターを描くことを約束させました。

 

それからというもの、50歳で故郷のチェコへ戻るまで、優雅で華やかな女性のポスターを制作するようになります。

 

1896年
四季(春)

 

 

スポンサーリンク

装飾具などの立体作品

 

ミュシャはデザイナーとして、装飾具など、絵画以外の物のデザインも手がけました。

 

たとえばこちらのブレスレット。

 

1899年
蛇のブレスレットと指輪

 

サラ・ベルナールが「メデア」を演じるときに、実際に舞台で身につけたものです。

 

そもそもはミュシャが「メデア」の広告ポスターの中で描いたブレスレットでした。

 

1898年
メデア

 

それをサラ・ベルナールがたいへん気に入って、宝石商に作らせて、実際の衣装装飾として具現化したのです。

 

この他にも、ブローチや室内装飾、胸像なども制作しました。

 

1900年頃
ブローチ

 

1910年、50歳で祖国チェコに帰ったあとには、紙幣や切手、警官の制服までデザインしています。

 

切手

 

 

スポンサーリンク

アカデミックな油彩画

 

ミュシャは油彩画も数多く制作しました。

特に、スラヴ民族というテーマの作品が目立ちます。

 

画風はアカデミック、つまり、しっかりと構図を練り上げて筆跡を残さず歴史画などを画題にしたようなものでした。

 

1923年

 

19世紀末をパリで過ごしたミュシャ。

この時期のパリでは、印象派などの反アカデミックな新しい芸術がはじまっていました。

 

1880-81年 ルノワール
舟遊びをする人たちの昼食

 

ですがミュシャは、それらの新しい芸術に染まることはありませんでした

ミュンヘンやパリの学校で学んだアカデミックな画風を終生守り抜いたのです。

 

 

スポンサーリンク

大切にした信念

 

平面絵画から立体作品。

大衆受けするポスターからスラヴ民族の歴史画。

 

ミュシャは多様な表現方法を用いました。

 

ではミュシャは、軸となるような主義確固たる筋の通った信念をもっていなかった、ブレのある人物だったのでしょうか。

 

そうではありません。

 

ミュシャは、信念があったからこそ、多彩な作品を制作できたのです

 

 

民衆のための芸術

 

芸術は富裕層や権力者だけのものではない。

普通の人々も享受できるようになるべきだ。

 

ミュシャはこのような強い信念をもっていました。

 

パリでポスターを大量に制作したのはひとつの例です。

ポスターは大量に印刷され、街中に掲示されます

作品の所有者でなくても、美術館に行かなくても、道を歩いているだけでミュシャの作品を見ることができました

また、一点ものの油彩画と違い、リトグラフ作品は安価で購入できました

富豪でなくても本物を購入できたのです。

 

ここに、ミュシャの信念が表れているといえます。

 

ミュシャは、1894年に結成された「民衆芸術協会」の一員になっています。

民衆芸術協会は、芸術作品を創ったり鑑賞したりすることが難しい一般民衆に芸術にかかわる喜びを伝えたい、という理念から発生した団体です。

 

このコンセプトに共感し、ミュシャはその一員として活動しました。

 

 

スラヴ民族のアイデンティティ

 

ミュシャは、スラヴ民族の血を受け継いでいることを終生大切にしました

スラヴ民族とは、ロシアや東欧諸国に広がっていた民族のひとつです。

 

19世紀から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは民族主義的な思想が広まっていました。

第一次世界大戦の背景にも民族主義的な対立があったほど、大きな時代のうねりの源となっていました。

このような時代を生きたミュシャは、スラヴ民族としてのアイデンティティを強く持っていました。

 

パリで華やかなポスターを世に出す一方で、スラヴ民族としての作品を創りたいとも願っていました。

 

ミュシャは1910年、50歳で、成功したパリを捨てて故郷のチェコへ戻っています

スラヴ民族である自分が故郷のためになにかしたい、という熱い気持ちが、故郷へ戻らせたのです。

 

その熱い思いは、「スラヴ叙事詩」として完成に至りました。

 

1926年
スラヴの歴史の神格化
(スラヴ叙事詩)

 

 

スポンサーリンク

ムハとして描いた大作「スラヴ叙事詩」

 

日本では「ミュシャ」の読みで知られているものの、スラヴ系の言語では「ムハ」と読まれます。

 

「ミュシャ」はフランス語の読みであって、スラヴ人としてあり続けたかった本人は「ムハ」と呼ばれたかったでしょう。

それくらい、ミュシャ、ムハの祖国愛は熱烈なものでした。

 

50歳でチェコへ戻ったミュシャは、約18年の年月をかけて大作「スラヴ叙事詩」を制作します

最大6×8mの大作20点からなるスラヴ叙事詩は、スラヴ民族の歴史を幻想的に描いています。

 

1911年
故郷のスラヴ人(スラヴ叙事詩)

 

ある時は苦しみ、ある時は栄えたスラヴ民族。

ミュシャのアイデンティティが凝縮され、作品としてあらわれたのが、スラヴ叙事詩でした。

 

1912年
大ボヘミアにおけるスラヴ的典礼の導入

 

 

まとめ ミュシャはムハでもあり、画家でありデザイナーであり、信念を持ったひとりの人間だった

 

ミュシャ、ムハは、美女のポスター広告だけでなく、様々なかたちで表現活動を続けました

あまりに多彩すぎて本質を見失いそうになるくらいです。

 

ですが、作品たちには、ミュシャの強い思い、信念が込められていたのでした。

 

 

以上、最後までお付き合いいただきありがとうございました♪

 

関連記事

 

 

記事の更新情報をTwitterでお知らせしています

-作家
-,

Copyright© ぷらりあーと , 2019 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.