美術史知識

クロード・モネ 睡蓮で有名な印象派画家の作品や逸話などを徹底解説

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睡蓮、積藁、日傘をさす女など、有名な作品がたくさんある印象派巨匠クロード・モネ

私も大好きな画家のひとりです。

 

数々の美しい作品を描いたモネですが、その生涯は面白いエピソードが満載だったりもします。

知っているともっとモネを楽しめる知識があるのです。

 

今回の記事では、印象派巨匠モネについて、代表作品や面白いエピソードなどをご紹介します。

モネ好きさん、小ネタ好きさん、ぜひ楽しんで行ってくださいませ♪

 

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モネの生涯

 

まずはモネの生涯を簡単にご紹介します。

 

少年モネ

 

クロード・モネ(1840~1926年)は、1840年、パリに生まれました。

5歳頃のときに家族と港町ル・アーヴルに移住し、ル・アーヴルで育ちます。

 

のちにモネは、ル・アーヴルではしばしば学校をさぼって海辺を散歩したと語っています。

太陽の光をあびて常に変化する海を見つめたことが、印象派絵画につながったのかもしれませんね。

 

1858年、18歳の時、モネは画家であるウジェーヌ・ブーダンと出会います。

 

ブーダンは、風景画を屋外で制作していたプロの画家

プロの作画に開眼し、モネはブーダンに師事するようになります。

 

モネが初めて描いた油彩画がこちら。

 

 

はじめてとは思えないほど上手ですね……

 

モネは20歳になると花の都・パリへ移住し、本格的に画業に進むことになりました

 

パリで画家を志す

 

パリでは画塾に入り、夜は仲間と居酒屋で過ごしていたモネ。

そんな楽しい生活に水を差したのが徴兵でした。

 

モネは徴兵され、アルジェリアへ飛ばされます。

とはいえ、1年足らずでチフスに罹り、すぐにパリへ戻ってくるのでした。

 

帰国後は、ルノワールら当時の画家たちと交流しながら絵画制作に励みます。

その結果、モネが30代頃になると、徐々に作品が売れるようになりはじめました

 

1869年
ラ・グルヌイエール

 

モネとサロンと印象派展

 

フランスで画家として生きるためには「サロン」で認められる必要がありました。

 

サロンとは、官展、つまりアカデミックな公の展覧会

当時は作品を発表する場はサロンしかなく、サロンで認められなければ名前を知られることすらできませんでした

 

モネもサロンを目指し、入選することもありましたが、落選も多々ありました。

そして、サロンに落ちるという悩みを同じくする仲間と共に、1874年、第1回印象派展と呼ばれるようになるグループ展を開催しました。

 

ただ、先進的な芸術家ばかりの集まりは、うまくいかないこともありました。

なにせ、皆が個性的なのですから。

 

モネの心はグループから離れていきます。

 

連作と睡蓮

 

50代頃になると、モネは「連作」を本格的に制作しはじめました。

 

連作とは、何枚かの作品からなるシリーズもの

モネは、同じモティーフについて、時間や季節の移り変わりを表現した連作を制作しました

 

連作は若い頃から試みてはいましたが、この頃本格的に連作を制作するようになります。

 

晩年のモネは睡蓮に執着しました

1895年以降の作品はほぼ全て睡蓮という状態になるほどですから驚きです。

 

1926年、86歳で亡くなりました。

 

 

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マネだかモネだか紛らわしい!と当時の批評家も思っていた

 

どっちがモネ?

 

美術史を勉強しはじめた頃、よく思いました。

 

「マネだかモネだか紛らわしい!」

 

今ではさすがにマネとモネを間違えることはありませんが、当時は迷ったこともいくどかありました。

あなたもそうですか?

 

実は、マネやモネと同時代の人々も、ふたりをよく混同したようです。

 

特に、サロンでは名前のアルファベット順に並べられたため、マネとモネが隣り合う事態になりました。

 

これがモネ?

あっちがモネじゃない?あ、マネだ。

 

という会話が交わされたといわれています。

 

1866年サロンの悲劇

 

「隣り合わせ事件」が起こったのが1865年のサロンですが、翌年のサロンは更にひどいものでした。

 

なんと、先輩マネが落選

 

1866年
エドゥアール・マネ
笛を吹く少年

 

そして、後輩モネが入選

 

1866年
カミーユ(緑衣の女性)

 

街中ではマネが入選しただの、いやマネは落選しただの、何がなんだか訳がわからなくなっていました。

落選した方のマネは、わずかな期待を持って一応サロンに出向いたのですが、自分の作品は飾られていませんでした。

 

当時の週刊新聞「ラ・リュヌ」には、次のような文が掲載されています。

 

モネかマネか、モネである!

しかしこのモネがあるのはマネのおかげなのだ

上出来だ、モネ!

ありがとうマネ!

「もっと知りたいモネ」より引用

 

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若き日のカリカチュアがユーモラス

 

少年マネは、カリカチュアをよく描いていました。

 

カリカチュアとは風刺画のこと

モネは有名人から身近な友達まで、様々な人の似顔絵を描きました

 

1857年、17歳で中学校を退学したモネは、カリカチュアを売りに出します

 

戯曲家フランソワ・ニコライ

 

1枚あたり20フラン。

現在の日本円にしてなんと2万円ほど。

約200枚売れたとのことなので、売上金は……?

少年のわりにはお金持ちですね。

 

ボルドー・ワイン

 

この売上金は叔母が預かり、貯金にまわされました。

(モネの母はすでに亡くなっていて、叔母が母親代わりを務めていました)

 

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延長91mの超大作も…… 睡蓮への情熱が半端ない

 

睡蓮の池までつくってしまう

 

モネといえば睡蓮。

睡蓮といえばモネ。

 

モネは後半生、睡蓮に執着しました。

 

1895年以降に制作したのはほとんど全てが睡蓮

生涯かけて描いた作品のうち睡蓮は約7分の1を占めており、なんと300点以上あるのです。

 

1907年
睡蓮

 

モネは睡蓮を描くため、自宅の庭造りに励みました

 

「水の庭」はモネが自宅につくりあげた庭で、日本庭園風太鼓橋や藤棚を設け、柳や竹を植えていました

 

1899年
睡蓮の池、緑のハーモニー

 

水の庭には、大きな池があります。

モネはこの池を「睡蓮の池」と名付けました。

 

1893年頃からつくられはじめた庭は、1926年にモネが逝去するまで、改良されながら美しさを保っていました。

 

総延長91mの超大作睡蓮に挑む

 

モネは自分で、「水と反映の風景にとりつかれてしまった」と述べています。

その集大成とも言えるのが、超大作「睡蓮」です。

 

……睡蓮、だけではどの睡蓮か分かりませんね。

ここでは超大作睡蓮と呼びましょう。

 

超大作睡蓮は、高さ2m、総延長91mに及ぶ作品でした

 

1920-26年
緑の反映(一部)

 

もともとは装飾画として、行き先が決まらないまま描きはじめたのですが、途中から「国に寄贈しよう」という話が持ち上がりました

さてどこに飾りましょう?と話しているうちに、だんだんと話も作品も壮大になっていき、行き先は遂にオランジュリー美術館に決まりました

 

モネの死後、美術館のふた部屋にわたり、壁一面に作品が飾られました

 

オランジュリーとは、温室を意味します。

 

もともとは温室であったオランジュリー美術館の建物は、自然の光をいっぱいに取り入れるように設計されていました

 

自然の光を追い求めたモネ。

そんなモネの集大成が、自然光に満ちたオランジュリー美術館に辿り着いたのは、運命だったのかもしれませんね。

 

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まとめ 知っていると面白いモネ

 

以上、モネの生涯やエピソードをご紹介しました。

有名人ではありますが、新しい発見もあったかもしれません。

楽しく読んでいただけたのなら嬉しい限りです。

 

モネについてもっと知りたい!

となったらこちらの書籍がおすすめです。

このサイトでよくご紹介している「もっと知りたい」シリーズのモネ版です。

図版も解説文もバランスよく入っているので、読んで楽しい見て楽しいおすすめの一冊です。

 

印象派全体についての解説記事はこちらにあります。

ご参考までに。

印象派とは?有名作品、画家、どこが新しいのかを分かりやすく解説!

 

ではでは、最後までお付き合いいただきありがとうございました♪

 

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