作家

河鍋暁斎 天才的画力と卓越したユーモアのセンスにあふれた奇想の画家

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河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)という絵師をご存知ですか。

何年か前に東京渋谷のBunkamuraミュージアムで企画展が開かれたので、直にご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。

 

暁斎について簡単にご説明することは非常に困難です。

画業は極めて幅広く、技術の高さは天才的。

諧謔精神にも富んでおり、見る者を決して飽きさせない一方で、私のような「簡単に解説します♪」という記事を書く人間を泣かせる存在です……。

 

なので今回の記事では、暁斎の生涯をざっくりとなぞってから、作品を見ていただき、その画力を支えたエピソードを紹介するという組み立てにして、全体像をお伝えできればと思っています。

 

興味を持っていただけたら幸い、ということで。

 

では本文に入りましょう!

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生涯概略

河鍋暁斎は1831年、茨城県古河市に生まれました。

 

幼い頃から絵が好きだったため、7歳になると浮世絵師の歌川国芳に入門し、浮世絵を学びます。

しかし諸般の事情により2年ほどで辞めて、10歳の時に新しく狩野派絵師・前村洞和に入門することとなります。

 

狩野派入門後は順調に画力を高め、19歳にして狩野派の修業を終えました。

狩野派の修業は一般的に12年ほどであったため、暁斎は優秀な弟子であったと言えるでしょう。

こうして暁斎は、浮世絵という俗な絵画と、狩野派という伝統的な正統派絵画の両方を身に着けることになりました。

 

絵師として力を付けたこの頃、つまり1850年頃は、暁斎にとっては不幸な幕末の動乱期。

 

狩野派は幕府の御用絵師として仕事をしていたため、幕府の体制が揺らげば仕事に影響してしまいます。

暁斎は幕府からの仕事だけでは生計を立てられず、絵馬などを描いて凌ぐしかありませんでした。

 

転機は1858年。

1855年に起こった安政の大震災の後。

戯作者と共に「老なまづ」という風刺画を版行したのが売れに売れたのです。

この頃はまだ地震はナマズが起こすと考えられており、しかもナマズが悪政に憤ると地震を起こすとされていました。

幕府の政治体制が揺らぎ、庶民が不安と不満を抱いていた時流に合ったのでしょう。

 

暁斎は絵師として独立し、1889年、59歳でこの世を去るまで、それはもう様々なジャンルの絵を描いていくことになります。

 

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伝統的狩野派から浮世絵、風刺画まで

さて、生涯をざっくりとご紹介したので、ひとまず作品をご覧ください。

画題の豊富さや技術の高さが分かるかと思います。

 

龍虎図屏風

151.0×164.4cm

板橋区立美術館

狩野派の伝統的な画題である龍虎図です。

龍と虎の生き生きとした表情や、緊迫感が伝わってきます。

画力の高さもうかがえますね。

 

名鏡倭魂 新板

大判錦絵三枚続

河鍋暁斎記念館蔵

こちらは浮世絵木版画の作品です。

鏡から放たれた霊力によって、妖怪たちが逃げていく様子が描かれています。

数多くのモティーフをうまくまとめていますが、これまた彫師泣かせの作品ですね。

 

美人観蛙戯図

56.1×92.8cm

個人蔵

暁斎の美人画は本当に美人ですね。

惚れ惚れしてしまいます。

暁斎は蛙もよく描きました。

個性豊かな蛙たちを見ているだけでも面白いですね。

 

閻魔大王浄玻璃鏡図

35.3×52.0cm

福富太郎コレクション資料室蔵

何ともコミカルな絵です。

女の人が覗いている鏡は、生前の悪行が映し出される鏡……のはずが、おかしい、美しい女の人が映っていますね。

よほど清廉な人だったのでしょう。

閻魔大王は困り果てています。

 

暁斎は地獄や妖怪もたくさん描きました。

想像が膨らみやすくて、楽しかったのかもしれませんね。

 

風人雷神図

各114.3×35.5cm

ボストン美術館蔵

琳派でも狩野派でもおなじみの風人雷神図ですが、暁斎の作品はとても個性的ですね。

ちなみに、琳派では左に雷神、右に風神ですが、狩野派では反対になります。

狩野派流の作品も暁斎は制作しています。

 

 

まだまだまだまだご紹介したい作品はたくさんあるのですが、このあたりで一旦終了にします。

 

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画力を支えた執念

最後に、暁斎の作画に対する姿勢の凄みについてです。

 

暁斎は卓越した画力を持っていましたが、それは並々ならぬ執念によって獲得されたものでした。

 

絵に対する執念を物語るエピソードは、幼少期から晩年まで尽きることがありません。

3歳で初めて写生をすることから始まり、9歳の時には拾った生首を写生。

大火事の現場で一心不乱に写生。

養子に入った先では女中を追いかけて帯を写生。

女中を追い回したと誤解されて離縁されるほどでした。

 

また、明治の初期からは毎日欠かさず絵日記をつけていました。

いつ誰と何をしたなどなど、なにということもない日常風景を絵で記録したのです。

それは暁斎の描画への執念を物語るだけでなく、今日の暁斎研究における非常に重要な資料となっています。

 

このような「常に画と共に生きる」暁斎の姿勢によって、先ほどご覧いただいた作品の誕生につながるのですね。

 

なお、暁斎は作画において、数多くの下絵をつくりました。

試行錯誤を執拗に繰り返した形跡がみられ、濃密で複雑な構図を、無数の下絵が支えていることが分かります。

しかし一方で、さらりと一筆目で決定されている線もあるのです。

これはやはり、暁斎の技量とセンスが卓越しているというほかありません。

 

 

以上、河鍋暁斎について、ほんの少しではありますがご紹介してみました。

魅力がお伝えできていれば嬉しいです。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました♪

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