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吉田博 山に溶け込み、絵画に身を捧げ、日本のみならず欧米でも活躍した気鋭の画家を紹介します

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吉田博は1876年に生まれ、1950年に没した画家です。

若いころは水彩画をよく描いたのですが、油彩画も描き、更には木版画をも制作しました。

日本でも評価は高かったのですが、欧米において名を馳せたことも特徴です。

ここでは、吉田博の画業について、初めて名前を聞いたよ、という方にも分かりやすいようにご紹介します。

 

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画家への道

吉田博は1976年に福岡県で生まれました。

幼い頃より山を歩いては写生していたため、抜群の画力を持っていました。

そのため、中学生の時、教師であり洋画家でもある吉田嘉三郎に見込まれ、養子になります。

そして17歳になると京都へ行き、嘉三郎の師匠の下で修業生活に入りました。

 

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水彩画と油彩画の修行

水彩画に出会ったのは、京都での修業時代でした。

小山正太郎の水彩画に衝撃を受けた博は、正太郎の勧めもあって18歳の時に上京し、水彩画を徹底的に学ぶことになります。

 

博は水彩画の他にも油彩画も描いていました。

特に油彩画に没頭したのは30代後半から50代の頃で、山岳風景を中心に描いていました。

何日も山に籠り、体感した自然の空気を作品に反映させました。

 

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木版画制作の契機

水彩画、油彩画は早い段階から制作していましたが、木版画を初めて手掛けたのは1920年、博が46歳の時でした。

1920年というと、新版画運動が始まった時期に当たります。

新版画運動とは、明治の文明開化で廃れてしまった江戸時代の浮世絵を再興しようという試みです。

詳細はこちらの記事にあるので、気になる方はご参照ください。

新版画運動の中心人物は、版画制作の企画をする「版元」の渡邊庄三郎でした。

そして、博に初の木版画の図案制作を依頼したのがこの庄三郎でした。

依頼されたのは『明治神宮の神苑』という作品で、博が高い写実能力を持っていたため絵師に選ばれたとされています。

これを契機とし、博は木版画の制作に力を注ぐようになりました。

 

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博の木版画制作の特徴

博が初めて木版画制作を依頼されたのは、先に述べたように新版画運動の渡邊庄三郎でしたが、その制作スタイルは新版画とは少々異なります。

 

新版画においては、制作は完全に分業化されていました。

すなわち、企画・販売を取り仕切る「版元」がいて、別の人物である「絵師」が図案を作成し、また別の人物「彫師」「摺師」が職人として版木を彫り紙に摺って完成させる、という体制だったのです。

 

しかし博は、木版画制作において最も重要なのは「絵師」であると考えていました。

そのため、彫や摺の高度な技術を自らも身に着けた上で、彫や摺の現場に立ち合い、注文を付けながら絵師である自分の表現したいことが表現できているかを徹底的に監督したのです。

こうして出来上がった木版画には「自摺」の字が記載されました。

「この作品は、絵師である私が摺まで監督し制作したものである」

という博の自負の証です。

 

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決死の覚悟での渡米

1899年、博が23歳の時でした。

当時、博は「不同舎」という会に属していましたが、東京美術学校は黒田清輝ら「白馬会」の力が強い状態でした。

 

博は考えました。

「国費での留学が白馬会系列の学生が占めてしまっている。」

「不同舎の者は国費では留学できまい。」

博は自費での留学を決意します。

 

自己資金はありませんでした。

そのため親戚中から借り集めます。

そして片道分の船代と1か月分の生活費をやっとやっと確保できた時、なんとそれだけでアメリカへ渡ってしまったのです。

 

「二度と日本へは帰れないかもしれない。」

親族、師匠、学友らと別れの盃を交わし、決死の覚悟での渡米でした。

 

そうして渡ったアメリカで、博は大成功を収めることになります。

 

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渡米先での評価

まずはデトロイトにて。

決死の覚悟で行ったデトロイトで、博と、同行した中川八郎は、デトロイト美術館の館長グリフィスと出会います。

グリフィスは二人の水彩画を見て、その魅力に驚嘆しました。

そしてデトロイト美術館で展覧会をやるよう勧誘します。

 

展覧会は開催されました。

評価は極めて高く、博の作品は92点中33点が売れたのです。

博と八郎は更にボストン、ワシントンと展覧会を次々に開催し、開催する度に売れました。

 

アメリカでこうした高い評価を受けた理由としては、二人の日本人が描く洋画が目新しくかつ馴染み深かったことが考えられます。

 

ジャポニズムにより日本美術はアメリカにも浸透していました。

しかしそれは、浮世絵ややまと絵などの、デフォルメされ、輪郭を描かれた日本的絵画であり、西洋絵画の遠近法や写実性とは全くもって違うものでした。

博らは洋画家として、西洋的感覚で日本の風景を描いたため、アメリカ人にとって目新しくも馴染み深い絵画として評価しやすかったのです。

 

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絵画の鬼

博は画家として成功を収め、美術史上に名を残しましたが、それは絵画制作に対する極めてストイックな姿勢によるものに他なりません。

 

博は風景画を主に制作しました。

特に、山岳風景画においては非常に高い評価を得ています。

 

博は、「山に登った」というより「山と一体となった」というような表現が相応しいほど、溶け込むように山に籠りました。

何日も何日も山に居て、時には木の実を食べて飢えを凌ぎ、白昼に熊と出くわしたりしながら、自然が一瞬見せる美しさを捉えて作品に反映させました。

 

単純に自然を写実的に写し取るわけではなく、その中に溶けて入り込む。

それによってのみ、人を感動させるような絵が描ける。

博は剛の精神を持って、画家として生きたのです。

 

 

 

以上、吉田博についての解説でした。

ストイックでドラマティックな吉田博の魅力が伝われば幸いです。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました♪

 

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