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ポール・セザンヌの生涯、代表作、一体なにが凄いのか?を徹底解説!

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ポール・セザンヌ(1839~1906年)は、19世紀頃にフランスで活躍した画家です。

林檎の静物画を大量に描いた画家として有名ですね。

 

1899年
林檎とオレンジ

 

セザンヌは絵を「上手に」描けるのか、と尋ねられたら、なんとも言えません。

岡本太郎も、セザンヌは「ヘッポコ画家」と、著書に書いてしまっているくらいなので。

 

ですが、セザンヌ。

私も、もちろん岡本太郎も、すごい画家だと思っています。

 

この記事では、セザンヌの生涯や代表作を解説しつつ、彼の一体何がすごいのかを分かりやすく解説します。

新時代を切り開いたセザンヌの面白さを味わっていただければ幸いです。

 

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作品のご紹介

 

まずはセザンヌの作品を5点ご紹介します。

ご自身の目で感じ取ってみてください。

 

1867-1868年
アシル・アンプレール像

 

1887年頃
大きな松のあるサント・ヴィクトワール山

 

1890~94年
りんごの籠のある静物

 

1888-1890年
赤いチョッキの少年

 

1885-87年
ジャ・ド・ブーファンの大樹

 

いかがでしょう。

正確ではないものの、どこか収まりがよい構図。

そんな不思議な印象を受けたでしょうか。

 

では、これから解説に入りましょう。

 

 

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生涯概略

 

画家を志すまで

 

ポール・セザンヌは1839年、南フランスのエクス・アン・プロヴァンスに生まれました。

 

銀行家である父親は、一代で成り上がったお金持ち。

息子には自分の仕事を継いでもらいたいと思っていました。

 

息子セザンヌも、父親の希望は知っています。

けれど、絵画の魔力を知ってしまった息子セザンヌは、どうしても画家になりたいと思っていました。

 

1861年、22歳で、画家になるためパリに向かうことになります。

 

 

パリとエクス・アン・プロヴァンスの往復

 

画家を目指してパリへ行ったセザンヌ。

意気揚々と、夢の都にようやく来ることができました。

 

しかし。

 

喜びもつかの間、セザンヌは半年もたたないうちに、故郷エクス・アン・プロヴァンスに戻ってしまいます

 

晴天のなかなかない気候になじまなかった、という説もありますが、絵画に対する自信を失ったからだという説もあります。

 

出戻ったセザンヌは父親の銀行で働きはじめますが、どうも気が乗りません。

やっぱり絵を描きたい……

23歳のセザンヌは、再びパリへ行く決心をしました。

 

このできごと以降も、セザンヌはパリとエクス・アン・プロヴァンスをしばしば往復するようになります。

 

 

サロンでの落選続き

 

パリへ戻ったセザンヌですが、サロンでは落選が続きます

サロン(官展)は、当時作品を発表する唯一の場でした

伝統的な作風しか認められない、ひどく硬直的な展覧会です

 

でも仕方ありません。

サロンで重視されたのは、歴史画などの伝統的な画題を、大きなカンバスに、綿密に構成立てて筆跡を残さずつややかに仕上げることだったのです。

 

セザンヌが1870年のサロンに出した作品がこちら。

 

1867-1868年
アシル・アンプレール像

 

お世辞にもサロン向けとは言えませんね。

 

それでもセザンヌはサロンに出品し続けました。

 

 

印象派との関り

 

当時、花開こうとしていたのが印象派です。

 

セザンヌは印象派画家たちと出会い、影響を受けます。

印象派の画家たちが開いたグループ展、通称印象派展にも出品をします。

たとえば1874年に開かれた第1回印象派展に、セザンヌは出品しています。

 

ですがセザンヌは、当時の先鋭的な集団・印象派の更に先を目指し、印象派とは距離を置くようになりました。

 

 

初めての個展で衝撃を与える

 

サロンや印象派展には出品していたものの、セザンヌの存在は広く認知されていたわけではありませんでした。

強い影響力を持っていたのはサロンだったのですが、毎度毎度落選しているので当然と言えば当然です。

 

転機となったのが1895年の個展開催です。

画商ヴォラールが企画したこの個展によって、セザンヌの革新的な作品たちが世の中の人々の目に飛び込んだのです。

 

今までにない絵画に、パリは揺さぶられました。

 

 

劇的な最期

 

晩年のセザンヌは、絵を描きながら死にたい、とこぼすようになりました。

そして1906年、セザンヌはその願いを全うします。

 

雨の中屋外で描いたことで体調を崩したセザンヌは、これをきっかけにして亡くなります。

画家魂が感じられる、見事な最期でした。

 

 

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セザンヌのどこが「ヘッポコ」なのか

 

岡本太郎は「今日の芸術」で、セザンヌを「ヘッポコ画家」と称しました。

 

もちろん、岡本太郎は、セザンヌの絵に価値がない、と言いたかったわけではありません。

セザンヌの描いた作品は当時の一般的な基準からは遠い存在だった、という意味の表現なのです。

 

「当時の一般的な基準」とは、サロンの審査で用いられた基準のようなイメージです。

 

つまり、固定された視点から見えたものを、見えた通りにカンバスの上で再現する。

また、絵の具はていねいに塗り重ね、筆跡が分からないくらいつややかにきれいに仕上げる。

 

当時の絵画にとってはこれが重要、というか、最低限の必須事項でありました。

 

セザンヌの絵は違いますよね。

 

ひとつの画面に異なる視点から見られたモティーフが同時に描かれています。

筆遣いの跡も残っています。

も歪んでいます。

 

この少年は、右腕が長すぎますよね。

 

1888-1890年
赤いチョッキの少年

 

不自然。

屈曲。

未完成。

 

旧来の価値基準からすると、ダメダメです。

 

ですが、この「旧来の価値基準ではダメダメ」というところに、セザンヌの価値があるのです。

 

 

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ダメダメなセザンヌはどうして価値があるのか

 

旧来の価値基準からするとダメダメなセザンヌ。

その価値は、まさに、旧来の価値基準をぶっ壊したことにあるのです。

 

たとえば視点。

私たちは、普段、どのようにしてモノを見るのでしょうか。

たまには動かずじっと見つめることもあるかもしれません。

でも大抵の場合、動いて視点を変えながら見ますよね。

 

セザンヌは、この「動いて視点を変えながら見る」ことが本当だよね、と、絵画の上で主張しました。

 

1890~94年
りんごの籠のある静物

 

これは、革命です。

時が進んでいくと、あのピカソなどが、これをやるようになります。

 

パブロ・ピカソ
泣く女

 

 

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印象派とも違う、更に進んだ絵画をつくりあげた

 

視点を動かすことで、旧来の絵画と未来の絵画の橋渡しをしたセザンヌ。

セザンヌは、もっと先へ進みます。

 

キーワードは「画面の構築」

 

旧来の画家だけでなく、当時先鋭的だった印象派ですら、「見えたものをいかにカンバスに写しとるか」という課題を抱えながら制作活動をしました。

 

セザンヌは違います。

 

絵画の世界は、現実世界ではない。

絵画は現実世界に引っ張られる必要はない。

絵画は絵画の中で、画家によって美を構築されるべきである。

 

と考えたのです。

 

絵画は絵画。

現実とは違う世界なのだから、見えるものをそっくりそのまま再現する必要はないでしょう?

と、主張したのです。

 

これも革命です。

 

そして、この主張は、次の世代に移るにつれて、常識に変化していくのです。

 

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まとめ セザンヌは未来の絵画世界をはじめた人だからすごい

 

セザンヌのどこがすごいのか。

まとめると

セザンヌは、今までの価値観を乗り越えて、新しい絵画の姿を提唱したからすごい

のです。

 

以上、最後までお付き合いいただきありがとうございました♪

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